2021.2.28
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関西サーフカルチャー・アーカイブ Vol.2
1960年代後半、和歌山・磯ノ浦でサーフィンを楽しむ日本人の若者がいた!そこから生まれた関西のサーフカルチャー。 その歴史をあらためて掘り起こして残して伝えていこうと始まった番組の第2回。
今回も関西サーフカルチャーの歴史を知る重要人物お二人に電話でお話を聴きました。
■塩谷正紀さん(shore surfbords オーナー兼シェイパー)
サーフィンをはじめたのは18歳の時(1968年)磯ノ浦にて。当時、大阪から和歌山に向かう国道26号線が混んでいたことや、伊勢の方が波が良かったこともあって、いつのまにか伊勢に行くようになったが、奥様が毎日サーフィンされるようになったのをきっかけに磯ノ浦が見える丘の上に家を購入!!それ以降、365日海を眺め、波が良ければ海に入る生活を送る。磯ノ浦・西磯の岩場に砂が付き波質が良くなった反面、伊勢・国府の浜の前にテトラポットが入り波が悪くなってしまったのも磯ノ浦に戻ってくる要因に。
塩谷さんが板を作るようになったきっかけは、、、
当時ジェリー浅田さんがドロップアウトの店を大国町でやっていて、塩谷さんがそこのチームライダーをしていたころに、ジェリーさんと塩谷さん2人が一緒にハワイへ行き、タウン&カントリーのヘッドシェイパーのシェイプを見学。 さらにその翌年には、カリフォルニアのサンディエゴにあるビルキャスターの工場でシェイプしているところを見学。 そしてボードを削りたいという気持ちがどんどん大きくなっていったのが23歳、1973年頃のこと。
塩谷さんが湘南のパイプラインサーフボードのライダーになったころ、シェイプなどを勉強していた西脇さんと一緒に shore surfbordsをはじめた。その頃、サーフボードを作っていたのは塩谷さんの他、北村滋郎さん、テリー篠原さん、ウィングクラフト八尾義信さん、アンクルサーフボード萩野恭英さんなど。腕を上げるためにいろんな人のシェイプを見たし、ハワイからカール・シャーパー、ブレット・マルモト、オーストラリアからニック・ポップなどを自分の工場に呼び、削ってもらって技を自分のものにしていった。ハワイのシェイパーを家に泊めて磯ノ浦の波に乗ってもらい、そこに合ったボードを作ってもらったことも。
■北村滋郎さん(ウィリーウィリーサーフボード)
19歳の時に「サーフビート」というテレビ番組を見て、こんなこと日本ではできないと思っていたら、磯ノ浦に海水浴に行った時にサーフィンをやっている人がいて、すぐにサーフボードを探しにいった。そしてマリブのロングボードを手に入れてサーフィンを始める。その頃、サーフィンをしていたのは八尾義信さん、ヘンリー祝さん、ジェリー浅田さんなど。
サーフボードを初めて作ったときは、材料はウレタンフォームで、まわりをグラスファイバーで巻いていることは知っていたが、どこで手に入るかわからなかったので電話帳で調べたところウレタンが畳に使われていることがわかり、東大阪の畳屋さんに行き、ウレタンを分けてもらってノコギリと紙やすりでシェイプしていった。これが関西で初めて作られた板となる。1971年の頃。場所は黒門市場の近くにある印刷屋の2階。そこに、ヘンリー祝さん、ジェリー浅田さんらも訪れていたという。
サーフボード第1号は、本当は190センチぐらいのものを作りたかったが、畳屋さんで材料を調達しているので長さは180センチほど。第3号はテリー篠原さんと一緒に徹夜して作り、その板を持って第1回ウイング杯に出場。グーフィーが1位から6位までを占めるコンディションの中、唯一レギュラーだった北村さんが2位に入賞。それ以降、板を作って欲しいというオーダーが増えた。
などなど、
今回は、サーフボードにまつわるお話がたくさんアーカイブされました。
第3回も乞うご期待!!
■番組でオンエアした楽曲は・・・
Down Under / Men At Work
You're Only Lonely / J.D. Souther
The Last Resort / Eagles
I Want You / Bob Dylan
- DJ:マーキー
- ゲスト:木梨邦則/ 電話ゲスト:塩谷正紀、北村滋郎