物見遊山
門上西林 物見遊山 【#110/ 2018.11.10】[11.10 sat]

今夜のトークテーマは「書くこと)」
●今夜の選曲●
M① Somewhere Over The Rainbow 〜What A Wonderful World
/ Israel Kamakawiwo'ole .... (門上選曲)
M② 遠くへ行きたい / さだまさし ....... (西林選曲)
M③ 落葉が雪に / 布施明
(エンディング・ソング) ..... (西林選曲)
※今月のエンディング・ソングの選曲テーマは『落ち葉』
今回の『放送後記』の担当は西林さんです。
本放送に合わせてコチラもお楽しみください。
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文章における日本語は、ひらがな、かたかな、漢字が混在して成り立っています。それをどのように使い分けるかでその人の文章スタイルができあがるだけでなく、どの国にもない文書の特徴がそこから立ち上がるのです。
番組でそんなことを話したあと、もうひとつの特徴をいい忘れていたことに気づきました。それは「一人称」と「二人称」のことばの多様さです。英語なら「I」と「You」、フランス語なら「Je」と「Tu」もしくは「Vous」だけですが、日本語になると「私」「僕」「俺」「わし」「自分」、「あなた」「君」「お前」「おのれ」「てめえ」など多種多様。また、表記を漢字、ひらがな、カタカナにかえるだけで、キャラクターや状況があるていど浮かび上がってくるというのも日本語ならではです。
作家の沢木耕太郎がなにかのエッセーで、江夏豊を取材したとき、江夏は自分のことを「ぼく」といっているのに、ほかの雑誌のほとんどは、江夏の一人称が「わし」になっていることの不思議について書いていました。編集者にとって江夏は、自分のことを「わし」と呼ぶ人であってほしいということでしょうか。しかしテレビで野球解説をしているときの江夏は、「わし」とはいわず「ぼく」といっています。後輩選手の名前もかならず「さん」か「くん」をつけています。江夏の本当は、「わし」と呼ぶ人なのか「ぼく」という人なのかはわかりませんが、その微妙なゆれのあるところに、江夏豊の怖さと凄みと孤独があるような気がします。
<西林初秋>